聖火がやってきた日

小林新

2008年04月26日 23:00

        

朝起きて、すぐにテレビをつけた今日。

普段は、テレビを朝からみることはあまりない。

(そんな余裕もないからだけど)

  

今日は、この長野に、北京オリンピックの聖火がやってきた日。

   

  

   

10年前の長野オリンピック。この時、僕は高校3年生。

関心はあったけど、そこまで意識してはいなかった記憶がある。

シッカリと覚えているのは、スキージャンプ団体の金メダルの時の光景と感動。

ただ、それも、テレビで、だけど。

  

あれから10年。今の自分は、聖火がいくつもの海を越えてこの日本に、

それも唯一、ここ長野にやってくることの尊さがわかる。

世界がスポーツでひとつになる4年に1度の祭典、オリンピック。

その聖火が、再び、この長野にやってくる。

それは、長野県民としてお祝いしたいなぁと、素直に思っていた。嬉しいことだなぁと。

  

   

しかし、朝テレビで流れていた光景は、

まるで興奮の中のサッカー会場のように、物々しく2種類の国旗がたなびく長野市。

どう聞いても穏やかでない、怒号、絶叫が聞こえてくる。

なんだか、やるせなくなって、どうにもせつない気持ちになってテレビを切った。

これ長野なのか?と思った。長野じゃないみたいだった。街の人は見えなかった。

    

もちろん、これはテレビの中の光景。

現場がどうだったかは、自分の目で見ていないからわからない。街の人も多くいたんだろう。

だけど、歓迎すべき聖火リレーが、こうも穏やかな雰囲気でなかったのは、

様々な問題はあれども、長野に住む者として哀しいことだった。

       

   

  

今日の放送(SaturdayD)の中で、小林夏樹さんが話されていた言葉が印象的だった。

  

『もし、聖火に心があるんだとしたら、今日のこの光景をどう思っているんでしょうね?

 〜でも、全部ひっくるめて、

 「これが今の世界の姿なんだ。」と思っているのかもしれませんね』

  

 

今の、世界の姿   ・・・か。

  

   

そもそも、今回このような光景になったのはなんでだろうか。その問題の根っこ。

そして、今、世界で起こっていること。これまで起きてきたこと。

それを、正しく知ること。

    

それが、この北京オリンピックで、

自分を含め世界の人々に、少なくとも課されたことのような気がする。

スポーツを応援する以外に。もうひとつ。